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【西田幾多郎(前期)】日本思想解説【純粋経験】【主客未分】 3 года назад


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【西田幾多郎(前期)】日本思想解説【純粋経験】【主客未分】

※書籍 善の研究 (岩波文庫) https://amzn.to/349A1yD とっつきづらい哲学や心理学の内容を、出来るだけわかりやすく完結に お伝えすることを目的としたチャンネルです。 チャンネル登録、高評価、拡散、ぜひぜひ宜しくお願いいたします。 Twitterやっています。 色々と企画も考えていますので、ぜひフォローお願いします。 ご連絡などもこちらから。   / tetsugaku_ch   動画の書き起こし版です。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 西田幾多郎は1870年、加賀国(現在の石川県)に生まれました。 裕福な生まれでしたが、その後に父が破産するなど、幼少期時代は苦労が絶えなかったと言います。 高校生のときには、校長の変更により厳しくなった校則に反発し退学処分になりますが、その後勉学に励み現在の東京大学に入学しました。 この頃に出会った鈴木大拙に影響を受けて、後に禅に没頭するようになります。 彼の哲学は【西田哲学】と呼ばれ、彼が京都大学の教授として教鞭を取ったことから その後に西田哲学を解釈して台頭する哲学者たちを【京都学派】と分類します。 西田幾多郎はそれまでの日本思想に西洋哲学の概念を取り入れて思想展開した人であり、 日本最初の哲学者とも称されています。 前期西田哲学のキーワードは【純粋経験】です。 それまでの西洋哲学的な『経験』の解釈はこのようなものでした。 『私』という主観と、『世界』という客観が明確に分離していて、 『私(主観)』が『世界(客観)』を感じることで『経験』が発生する。 そのように考えられていたわけですね。 現代の私たちも多くの場合、そのように判断していると思います。 西田はこれを批判し、 『私(主観)』と『世界(客観)』は【純粋経験】を推察した結果に過ぎない。 と主張します。 例えば『映画を見ていたら2時間が一瞬で終わってしまった』 というときのことを考えてみましょう。 この瞬間『映画に集中する』という経験が発生していますが、 そこには『私』も『世界』も存在していません。 映画に没頭しているときに『私が映画を見ている』というような 主観と客観の分離を意識していませんよね。 言い換えると、主観と客観が入り混じった状態を【没頭】と表現できます。 このように、主観と客観が一体となっている状態を【主客未分】と言い、 主客未分状態においての経験を【純粋経験】と呼びます。 このことから、まず初めにあるのは【純粋経験】であり、 その後、経験を推察することによって『私が映画を見ている』という 主観と客観の関係性が現れる。このように考えたのです。 この思想には、西田が禅に打ち込んでいたことが大きく影響しています。 禅の究極の目的の一つは【色即是空、空即是色】の真理を自覚することです。 つまり、仏教的な【空】という概念に触れることを目的の一つにしているのですが 西田が主張する【純粋経験】はこの【空】と非常に似通った概念です。 西田は【純粋経験】こそがこの世に実在する唯一のものであり、 それそのものが【善】である。と考えました。 つまり、【純粋経験】は【善】の経験であるということですね。 人間は、この【純粋経験】に至ることで人格の実現がなされる。 言い換えると、真の個性が発揮される、と主張したのです。 その上で、【善】の実現、または【純粋経験】である没頭状態を実現するためには 【意志】【感情】【知性】3つの要素が一体になる必要があるといいます。 例えば、プロ野球選手を目指す人がいるとします。 『プロ野球選手になりたい!』という動機が感情にあたり プロ野球選手になるために努力する行動が意志で 行動によって得た知識や能力が知性です。 これらの三要素が一体となった状態を【善】と呼びます。 簡単にいえば、本当にやりたいことに没頭している状態。ですね。 やりたいという感情がなければ没頭は生まれないし、 意志や知性がなくても同様です。 ここまで例に挙げたような『主観と客観』『意志と感情と知性』 または『善と悪』『幸と不幸』『自分と他人』というように、 世の中には対立する二つ以上の概念が存在します。 西田はこれらの対立した概念は、純粋意識の領域では お互いが相互に作用しあい、一つに繋がると考えていました。 このことを【絶対矛盾的自己同一】と表現するのですが、 これについては次回の後期西田哲学で触れたいと思います。 まとめます。 我々が普段経験している様々な事象は、 純粋経験から推察された結果に過ぎない。 その世界においては、主観と客観のように対立した存在があるように思えるが これらは全て【純粋経験】から生み出されたものである。 対立した存在の境がなくなって一つになり、没頭した状態が【善】であり、【純粋経験】である。 人間は純粋経験に触れてそれを認識することで真の自己を手に入れることができる。 個人的には禅に対する西洋哲学的な解釈のように感じます。 非常に日本らしい思想だとも捉えることができますね。 次回は、後期西田哲学についての解説です。 後期西田哲学では【純粋経験】をさらに掘り下げて 【絶対無】という概念を定義します。 非常に難解ではあるのですが、これもまた禅の影響を受けた思想なので 西洋哲学よりは我々に馴染み深い考え方です。 よろしければ、次回もご覧ください。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー #西田幾多郎 #純粋経験 #主客未分

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