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【曝涼展:生誕四百年を迎えて、改めて盤珪禅師に学ぶ】臨済宗円覚寺派管長 横田南嶺老大師猊下 1 год назад


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【曝涼展:生誕四百年を迎えて、改めて盤珪禅師に学ぶ】臨済宗円覚寺派管長 横田南嶺老大師猊下

今年は盤珪永琢禅師の生誕四百年にあたります。 盤珪禅師は、江戸時代に「不生禅」を提唱し、禅に新風を巻き起こした高僧です。 盤珪禅師の高弟である節外祖貞禅師を開山とする龍雲寺では、2022年11月3日~5日に五年ぶりとなる曝涼展を開催いたしました。 今回の曝涼展では龍雲寺所蔵の盤珪禅師、そして白隠慧鶴禅師の禅画・墨蹟も展示いたしました。 また、鎌倉の円覚寺管長・横田南嶺老大師をお迎えした講演会が本動画となります。 現代の禅僧による盤珪禅の評価ということから「柴山全慶老師」と「朝比奈宗源老師」から見た盤珪禅師についてお話いただきました。 ぜひ、ご視聴ください。 ■ご紹介の動画 【龍雲寺ダンマトーク:今こそ盤珪禅師に学ぶ】    • 【龍雲寺ダンマトーク:今こそ盤珪禅師に学ぶ】9月25日(土) 午後3時30...   ■配布資料 ---------- 現代の禅僧による盤珪禅の評価について 柴山全慶老師「盤珪禅に見る「身の上の批判」について」(『仏教と文化:鈴木大拙博士頌寿記念論文集』) 朝比奈宗源老師「我観盤珪禅」(『盤珪禅の研究』) 柴山老師 「大学の道は明徳を明らむるにあり」「埒が明かず」「明徳が知りたくば座禅せよ」 「おりふしにひょっと一切事は不生でとのふものを」(岩波文庫、四七頁) 「手度の弟子四百余員、法号を受けて弟子の禮を取るもの五万余人、諸国に創興せられし寺院四十七、滅後勧請して開山とするもの百五十に及ぶ」 (柴山)文字通り四衆群をなす有様であって、まことに史上稀に見る高徳の禅匠であった。 「仏心は不生にして霊明なものに極りました。 不生な仏心、仏心は不生にして霊明なものでござって、不生で一切が調ひますわいの」(同、三三三頁) 「惚じて身どもは仏語祖語を引いて人に示しもしませぬ。 只人々の身の上の批判ですむ事でござれば、すむに、又仏祖の語をひかうやうもござらぬ。身どもは仏法もいわず、又禅法もいわず、説ふやうも御座らぬわいの。 みな人々今日の身の上の批判で相すんで埒の明事なれば、仏法も禅法も、とかふやうもござらぬわ 。」(同、三七頁) (柴山)直指の一路に人々をして安心決定せしめんとするのである。 即ちこれを要約するに、盤珪禅の究極は、内容的に「不生の仏心」を主張するところにあり、化度的に「身の上の批判」を一振刀として、直下に安心決定を迫る(即ち主体の宗教的転換をはかる)ところにあるというべきである。 「衆生に毒を喰わすことは得しませぬ」(同、三六頁)「脇かせぎをしやうやうはござらぬわいの」(同、二一頁)「身共が所では、其様な古ほうぐのせんぎは致さぬ」(同、二〇頁)「身どもが法は、諸方の如く目あてをなして或は是を悟り、或は公案を拈提することなし」(同、一〇八頁)「身ども仏法をも不説、禅法をも不説、只人人具足したる仏心の貴き功徳を批判して、埒の明くことでござる。それ故、仏語祖語を引いて人に聞かせぬ也」(同、九六頁) (柴山)そこで禅師は、一切の歴史の粕を払拭し、最も新鮮に最も端的に、自己の体験を提げて「身の上の批判」なる一刀を振うのである。悟前の教養と参究に、伝統的経過を踏まぬ、妙好人的風格の禅師として、またふさわしい一事であったと見ることができる。 さて、盤珪のいわるる化度的手段である「身の上の批判」とは、如何なる仏語祖語にもよらず、智解学解にもたよらず「直下に自己の即今事に向つて参究を試みることであり、自己の即今事を通じて、直下に根源的な主体の転換を迫ることである。」禅は、つねに活きた人格を立場として「主体の転換を現証すること」に一切を賭けている宗教である。故に一切の修道的実践も「即今・此処此身」をはなれない。禅師はこれを「身の上の批判」なる一事によって遂行せんとするのである。 (柴山)「今もこゝに短気がござるか、あらば只今こへ出せ」と鋭くせまり、更に「何とぞした時そなたがひょっと出すのみだ、我が出かさぬにどこに短気があるものぞ」と急所を突き、人人に分別意識を容るる余地をなからしめらるるのである。この端的な批判に無分別の一境が突如として分別心を粉砕し、新しい自覚となって人格の底から動き出てくることを期せんとするのである。 「俗士問、不図、物おと或は迅雷を聞て、驚く事あるは、平生のをさまらざる故か。 いか様の事にも驚かざる様には、如何用心いたすべきや。 禅師曰、驚きなば只その儘にてよし。 用心すれば二つになる。」(同、一一〇頁) (柴山)不生の仏心は、無的主体のことであり、心理的には無心の心である。故に如何なる時、如何なる処においても、全体作用である。 「いかゞ用心すべきか」という問いが已に不生の場を離れている証左である。 驚きがそのまま全体作用に受用せらるる時、驚きが不生である。 驚きの外に用心のないのが真の不生でなければならぬ。 「驚きなば、只そのまゝにてよし」という盤珪の批判は、即今に徹して他をかえりみる余地を与えない鋭さを示している。 (柴山)盤珪の「身の上の批判」は機に触れ時に臨み、自己の胸底より流露する全体作用であって、まことに渋滞するところがない。従って一々分別意識の葛藤を切断する妙機をそなえ、常に生命が漲っている。 「人も疑うた程にとて、疑を生ずるは疑のまねなり。実の疑いにあらず。失却せざるものを失うたと思い、尋求するが如し」(同、一一〇頁) 「身の上の批判」こそは、実は概念化した看話の職能を、最も原始的な様態において遂行せんとする、盤珪的活手段であったということができる。而してまたそこに、禅における第一義の生命的役割を果しているものということができる。 謂わば盤珪は、看話を徹底排除せんとするかの如き姿勢を示しているのであるが、実は最も原始的な様態において、また最も純粋な様相において、活きた看話を実践したということが出来る。 即ち「身の上の批判」は、実際的に一種の「指事問義」であり、原始禅的看話であったと見ることが出来る。 今日歴史の推移に伴ない、看話禅の概念化形式化に對する批判は、漸く厳しさを加えつつあるのが実状である。この時にあたり、盤珪禅における「身の上の批判」即ち原始的な純粋看話への反省は、看話禅の新しい進路に、何等か示唆するものがなければならないと思う。 朝比奈老師 (見道の超詣。宗風の独創的。生活の厳粛) 『不生』の一語をもつて表現した大肯定の生活は、大乗思想の極致であり、禪の傳統的思想の大膽な告白である。盤珪の語を待たずとも、『この身が佛だ』 『この心が佛だ』『心は靈明なものだ、生死にあづからぬものだ』と云ふ意味の語は禪者の随處に示したところである。しかし之を獨自の悟境に立つて、自己の胸襟から流出し來つたところにその權威がある。授業の師雲甫が『汝徹せり、大に達磨の骨髄を得たり』と讃歎した所以がある。盤珪の不生の禪の提唱は傳統的な禪の思想に百尺竿頭更に一歩をすすめた観あるものである。 如上の特長を備へた盤珪の宗旨は、その人格の偉大さと相俟ってああしたすばらしい教化の成績を挙げたのであるが、その一代があれだけ華々しかったに拘らず、その死後に於ける門流の寂寥さはどうか。勿論門下にも相當な人はあつたやうだ。勅諡号を賜ったものも数人を算へる。しかしその法が何傳したかすら不明である。 しかし盤珪が公案を斥けて代りとして提唱した『不生でいよ』と云ふ示しは、一見たやすく見えて實際は公案に参じるよりも遙かに寄りつきにくい、孤危険峻なものであった。その證據にはこの示しを信受しそれに安住し得た信者は、僧侶にも在家にも澤山あつたやうであるが、盤珪が悟つたやうに痛快に悟ったものは殆ど出ない。その語録にも見えない。 それ程盤珪の宗旨は盤珪に於ては間然するところがないまでに純熟し、機用無礙であつたにかかわらず、數世にしてその傳の滅びた理由は、盤珪門下の人々の宗旨の造詣、爲人の作略が遠く盤珪に及ばず、代を追うて低下し、遂にはその道統をすら見失ふに至つたにあるが、その斯くなる原因は師たる者が後進の指導提撕に際して、その到未到の検討が行届かず、随つて之が積極的鍛錬の手段を施し得ないで、未到未熟をそのまま放置し、 師學共にその過失が分らず、それで好いと思ひすごしたにある。特に盤珪の宗旨のやうな超絶的な宗風に於ては、眞に法眼圓明な師に逢はねば、その身その儘悟りとなり、枯坐默照となり易い。不幸にして盤珪の門風はその弱點を呈露して亡びた。 出家と云ふ名にふさはしく家族をもたず簡易生活をなし、清浄な伽藍に住んでをつたならば、盤珪の示しの如き宗旨を信じ、悟りとか修行とか云ふはつきりした自覺や経験はつかまないでも、 晝夜規矩に従つて坐禪したり御経を讀んだりしてをれば、自分でも之が生き佛だと云ふやうな気分もして、それで済んでゐたかも知れない。 はたの者も別に怪しまない。人間にはさう云ふところもあり得るのである。宗教の長い歴史にはさうした生活が宗教生活だと解された時代がかなり多かったであらう。しかし之は極めてあぶなっかしい安心である。それは安定した環境と自分の生活を規定づける日常とが崩れた時、その安心も崩れ行くを免がれない。無事な時は天晴覺悟のきまったやうに見えた者が、いざとなると何にもならない例は往々に見るところである。白隠はそんな安心をけなして、『鼠の浄土で猫の一聲』と云つた。 盤珪の宗旨のやうに平明簡易はよいが突込んでゆく行の力をかいた指導ではとてもいけない。盤珪の宗易は盤珪の時代であつたからこそあれだけの感化を及ぼしたのである。しかしそれも間もなく實際的な迫力のある白隠の宗旨に代られねばならなかつた。況んや今日のやうに人間の宗教意識が變化し、僧侶の生活様式が違った時代に於ては尚更である。禪を現代に行ひ現代人の強い要求に副つて行くには、どうしても白隠の宗旨の長處を増強し發揮して行くより他はないと思ふ。 公案禪は盤珪によつて否定され白隠によつて昂揚されたが、二國師の宗旨の生命を發揮せんとされた意旨は一である。私は現下の宗門人が盤珪によって鳴らされた警鐘の音に、改めて耳を傾けんことを切望する。 結語として私は云ふ、盤珪が一生の提唱である『佛心は不生にして靈明なもの、不生なる佛心、不生にして一切がととのふ』と云ふ宗旨が全面的に肯定出来ないものは、未だ白隠の公案禪に参得したものと云ふことは出来ない。又盤珪が徹頭徹尾公案を排斥した精神の会得出来ないものも、未だ公案を用ひて人を指導するの資格がないものであると。 ----------     ----------------------------------------------------------------------- ■公式ホームページ http://ryuun-ji.or.jp/ ■書籍のご紹介 細川晋輔 / 禅の言葉とジブリ https://amzn.to/3wA4kdL 細川晋輔 / 迷いが消える 禅のひとこと https://amzn.to/39S7dNf 細川晋輔 / 人生に信念はいらない https://amzn.to/2OB1pk4   ■facebook   / nozawa.ryuunji   ■Instagram   / nozawa_ryuunji_s.hosokawa   -----------------------------------------------------------------------   #盤珪禅師, #白隠禅師, #横田南嶺老大師, #曝涼展, #世田谷, #龍雲寺

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